読みました。
子どもたちが「責め合う」のは言葉のもつ力を少しずつ身につけているのか。動物でいうところの順位付けの本能なのか。まあどっちもだと感じています。
(写真は宮城県蔵王キツネ村)(参考)あなたに似たキツネはキツネ村にいる - ドンブリ感情)
子どもたちは責めるのが大好きですよ。
相手に非があれば、教えない限り、責めてもいいと思っている。言葉を知らないころからだって、大人のミスはとっても喜ぶし。
自分は正しいときに、間違っている人を責めるのは楽しい。そこは教育が入らないと、ずっとそのままなんだろうなあと思う。
高校生にもなって言うやつは言いますよ。
「ホントのこと言ってなにが悪いの!?」
いやいやいやそういうのおもしろくないから。つまること言おう。
まず想像力を働かそうよ、そういう自分の頭だけが世界だってのみっともないよ、ってのをずーっとずーっと言い続けて、言われた相手の気持ちも考えてさ、お互いの気持ちをすり合わせていかないとさ、自分の欲望のままに責めてもお互いあまりいいことないよね、つまりはもしかしてそれって自分の欲望のためだけにやってるよねってのの経験を重ねて重ねて、で、だんだん言わなくなる。
一回目の責めるののみっともなさ、に直面するのが小学校の高学年、学級会でのつる仕上げだと思う。そういうのが今もあるのかどうかはわからないんだけど。
そこでついていけねえ、もし自分が被告席に立ってしまったら!?っていうか被告になるならないだって声のでかいあの人たち次第じゃね!?こええっていう恐ろしさを感じた子が「正義ならば責めてもよい」っていう段階から卒業していく。あと、本当に相手のことを思いやるっていう気持ちを成長させた子たち。
まあ、子どもたちで責め合うっての、教員は絶対許さないので、相手が悪ければいくらでも責めてもよい、っていうのは減っていく。ただ、強いリーダーシップで、ねじ伏せるようにして統率していて、実際心にまでそれが届いてなければ、せんせーがいないときには野放図になりがちだ。犬みたいなもんだ。そうじゃなくても「正義ならば相手がどうであっても責めてもよい、だって正義なんだしー」ってこっそりそういう気持ちを持ち続ける人もいる。
今だっているでしょう、ほら、みんながたたいているからこいつは叩いてもいいって叩くひと。まあわたしですけど。ありゃあ蜜の味だ。
またそれは順位付けでもある。
ニワトリのつつきの順序じゃないけれど(集団で飼っている場合強いやつがつついて一番よわいやつは地面をつっつくってやつ)サル山のサルだってしばらく観察しているとずっと順位付けの繰り返しをしている。
正義だーを振りかざしているほうが強い、なぜならわたしが正しいを振りかざして人よりも上位に立つこと。これも楽しい。そりゃあ大人だって。マウンティングっていう言葉もありますし。
自分のほうが上とアピールする「マウンティング女子」とは? - NAVER まとめ
子どもはいろいろ教わっていないので、やっぱり野生なんですよ。で、人の世界でそれなりに暮らしていくためにいろいろ教育していくわけです。そういう意味で小学校あたりはほんとエグいんでしょうね。読んでその段階の教育に携わる方々への畏怖を覚えました。
さすがに高校生ともなれば…って最近はだんだん成長が未発達な状態で入ってくるようになってきていまして…。
(写真は青森県の脇野沢。2014.2撮影)
読んでいろいろ考えさせられました。
ありがとうございます。
追記。
最初のを読んだときになんでか「どんな大人にまみれて生きているのやらこの子どもたち」という非難の目を感じてしまいましてまあこれはわたしの屈折した心がそうさせるのですがいやいや子どもってそんな何もかも善っていう存在じゃないでしょっていうのを言いたかった。
そしてこれがとてもおもしろかった。そういう発想はなかったー。