パレード

旅行と動物と料理と化学らへんを不定期に更新します。

見ていて苦しいことをいやだということができること

小さいころわたしはとても怒られることが苦手で怒られる気配がするだけでびくびくして実際怒られると泣く人間でした。ほかの人が怒られていることを見ることもとても苦手でよく泣いていました。小学校高学年になると自分ではない人が怒られていても泣くことは少なくなりましたが気持ちをおさえる方法を知ったため耐えられるようになった程度でした。おさえる方法は「自分には関係ない」「自分には関係ない」「あの人は怒られるべきことをした」「あの人は怒られて当然なんだ」と言い聞かせることでした。イメージとしてその場から自分がすうっと空中に浮いて俯瞰していることを考えることもしました。怒られて泣くこともかっこわるいし他の人が怒られて泣くのも筋違いでかっこわるい、とは思っていたんです。まあ今はもう少し別の方法で耐えられるようにもなっていますし大丈夫になってきたんだけれども。

同じようにかわいそうなことを見ることも苦手でした。見ていていやだなって思うような人間関係を自分には関係ない、あの子はそうされてもしょうがないんだ、って言い聞かせて知らないふりをすることが苦しくてうまく自分を言い聞かせられなくてよく「ちくった」り「学級会でつるしあげ」するいやなやつでした。「いやなやつ」と書きつつ、たぶん周りからうざったがられていただろうそんな自分を嫌いではありませんでしたし、今も結構好きです。

 

「いやなやつ」であった自分は今15歳から18歳前後の子どもと共に過ごし、社会に出て行くにあたり必要なものを成長させていく現場にいます。

現場においても「のり」と称して行為がエスカレートしていく事例は必ずあります。特に男の子の集団においては体の濃密なスキンシップを伴う場合が多く体格差があればあるほどエスカレートしがちです。

防止するためには当事者同士の心の内側には入り込まず、ただ行われている行為について客観視したときの感想を優先させることだと思います。眉をひそめる周囲のささやかな動きに耳を澄ますこと。周囲からの直訴が来るということは介入がなければもしもの場合は最悪の事態を想定するまで悪化しているということです。

それ以外の機会にしつこく「ちくるやつ、という言い方をするのはちくられて困る人だけです」「周囲には責任がある」「他者からみてかわいそうだという行動は両者がどう考えていてもやめるべきだ」等のメッセージを常に発信することも大切です。あの狭い教室の中、学校の中で一緒に過ごすということは目の端にでも不快感を覚える行動に対してはNOという権利を持つし、防止するために何らか動かなくてはいけないのだと思わせることが大切です。

時々ぞっとするくらいに人を人とも思わないいじわるな子がいます。変えていくためにはこちら側の権力を駆使する必要があります。取り巻きの削りの作業、褒めながらも人間性の改善を促すことの繰り返し、弱点を場合によっては全体の前でおおっぴらにすること。怒鳴ったり体罰を行ったり不和を引き起こさずとも、ベテランであれば全員にこにこさせながらでもそんな行為ができるのです。怖いね。

 

(追記)

加害者が一番悪いです。彼ら(彼女ら?)は平気で「遊びだった」「みんな楽しんでいた」とのたまいますし、そう心から思っていたりします。しかし人を人とも思わないいじわるな子は更正されなくてはいけません。もし彼らが「先生たちが止めてくれたらこんなことにはならなかった」と言うとしてもその言葉にまどわされてはいけません。彼らは保身のためならば心からそう思うのです。抑止力があっても無くても暴力はいけないことですしお金をむしり取ることだっていけないことでしょう。それを誰かのせいにしてそれで済む、逃げ切れると思っているのです。

(追記、ここまで)

 

人を虫のように扱ったり虫のように思ったりするけど、人は虫じゃないし、虫だって思いこむことや自分には関係ないっていって心をだますことはとっても苦しい。
だから今あの子のクラスメイトだった子たちが(だまって見ていただろう子たちが)どんなにか苦しいだろうか苦しかっただろうかと考えるとひどく落ち込みます。

なんてだれも幸せにならないことなんだろう。

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