パレード

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ドライブマイカーを見た感想

ドライブマイカーを見ました。

秋田だと2月の3連休なのに、秋田駅前の映画館で11時50分からの1本しかなかった。

2022年2月13日の日曜日に見たのだけれど2日前の予約ではスカスカだったのに当日はほぼ満席。見ている人の平均年齢は体感としては55歳くらい。

 

私は村上春樹さんの著作物がともかく好きで新刊でたらほぼ暗記するくらいに読む人間なのでそういう観点からしますと村上春樹さんの長編、上下巻あるくらいもしくはそれ以上、そういうのが出るとずっと読み続けないと終わらないので読むのですがそれを読み終わった後どうしてもバッテリーが切れるように人間は寝るしかないので寝るんだけれどそんなときに見る夢のようなそんな感じの映画でつまりなかなか良かった。いろいろつながっている。もちろんつなげるのは羊の役目です。羊がつなげてくれている。

 

多分ネタバレっぽいとこもあります。語りたくなる。

 

ドライブマイカーの中に入っている話は村上春樹作品のだいたい全部みたいなものなのだけれど、喪失とわからなさと、それでも生きていくみたいなことが村上春樹さんの作品の根底にはある。世界中の誰しも、何らかの喪失と、無理解と、それでも生きてかなきゃいけないっていう現実を多少なりとも抱えているので、そりゃ普遍性あるよな、って思う。基本的に自分は、村上春樹さんの新作が出るたびに、おお村上春樹はわたしのためにまた小説を書いてくれた、とか思いながら新作を読んでいるのでそういう人は多いのではないかと思われる。

ずっと信頼していた伴侶がすこぶる他人とセックスをしている、それをしょうがなく受け止めざるを得なくなって受け止めて…でもさあ、なんでだよ!ってのを物理的にバットで殴りに行くのが「ねじまき鳥クロニクル」で、クロニクルの中の奥さんは堕胎しているので、この映画の伴侶な「音さん」はこのときの「クミコ」である可能性がある。クミコは兄の「綿谷昇」によって損なわれるわけだけれどここを本作の「高槻」が担う。

 

「ダンスダンスダンス」で登場する、主人公が心を許して、この人なら友達になってもいいかもしれないな、と思わせる、誰もが好きになる、からっぽな男としての五反田君が登場するんだけれど、これが「高槻」になる。五反田くんは五反田くんらしく行動する。そしてたぶん、五反田君はキキをそうしたように、音さんをそうしたのではないか。

 

主人公は片目の視野が狭くなる。

見えてないところがある。死角がある。これはねじまき鳥。

 

音さんが語る物語は、「女のいない男たち」の中の短編、その名も「シェエラザード」の話そのもので、読んだ人は全員が全員シェエラザードの話だなあ、と思うんだけれど、結局の結末が違うので、ここで夢とか創作の混線が起こってきている。

混線が起こっているので(かっこう)わたしの中ではそうか高槻が音さんを殺したのかなと思う。

 

傷つくときに十分に傷つかなかった、それがよくなかったんだ、ってのは女のいない男たちの中に入っている「木野」にある。同じような光景がわたしのとても好きな「神の子たちはみな踊る」の中の短編の「アイロンのある風景」にもある。アイロンのある風景にでてくる「順子」は「渡利みさき」に思える。

 

最後に、「渡利みさき」が、どうして家福の車(海外のナンバーを取得した)を運転しつつ、韓国で買い物をして、流暢かもしれない、それなりの韓国語を話し、そして車には犬がいたのか、ということに関してどう考えるのか。

 

わたしの中では、家福が、あの広島の韓国人コーディネーター夫妻とともに、長期間に渡って韓国で演劇指導の立場になり「渡利みさき」が専属ドライバーとなる、2人は韓国人コーディネーターと共に暮らすもしくは近くに住む、専属ドライバーの「渡利みさき」は、犬の世話も見ていてそんなコロナ禍に彼女たちは同時進行で生きてる、ということにします。

 

家福と渡利がフェリーで北海道に行くシーンにおいては、途中でコメリに寄るんですが、これは新潟県上越市国分のコメリだそうです。

ここでタイヤ交換もしたのかなーって思いきや、すでに広島でスタッドレス的なものを履いているという。すごいな家福。どんだけ大切にしてるの車。

 

車を一緒に北海道まで連れて行かなくてはならないのですが、2日間しかないのにフェリーで北海道かーっていうのは水曜どうでしょうファンだといろいろ考えてしまうわけです。途中糸魚川が出てくるので、

新潟→小樽、に乗ったのかな、ってのが順当かと思われます。

 

でもさ、行くは行くけど2日での往復はちょっと無理がある気がする。

 

渡利の実家の、結構前に土砂崩れで崩れただろう自宅がああいう感じで、しかも結構主要道路から近いし、すぐ近くに民家もありそうで、それなのに助けてもらえなかったんだろうな、っていうあの雰囲気は、今の限界集落な地方都市の雰囲気をものすっごいちゃんと表現しているのですばらしい。

 

雪がすごい降る土地だと、誰も住んでいない家屋は普通に雪の重みでつぶれるし、それを誰も撤去しないので、つぶれたまま2,3年そのままは当たり前にある。今年も屋根の上に1~2m雪が積もっている独居老人の家があって、誰も何もせずそのままにして一人暮らしの老人がそこに住んでるままに家がつぶれて老人が死んでるのがわかってやっとニュースになるってのが現実なので。

 

全体的に言葉が多すぎて、そこまで言語化しないとだめなの?って思ったんだけれど時系列がずっと前に進み続けて(過去の回想シーンが皆無)、なおかつ心の声が全くないので、そうなるかな、とも思う。長いし、くどいし、もうちょっとセリフ以外でなんとかしてよ!と思うんだけれど、やっぱり言語化しないと伝わらないよな…。

 

多言語話者による劇中劇についてはまったく違和感なかったです。

 

そして最後のシーンで、シーンに合わせて、その声が聞こえる。

 

 

それがきっといろんなものを飛び越えて、そうだな、生きてかなくちゃいけないのだな、って、生き残ったものはそう思わなくちゃいけないっすね。

 

そんな感じです。